東京高等裁判所 昭和32年(う)925号 判決
被告人 田中利幸
〔抄 録〕
原判決は、罪となるべき事実として、被告人は常習として、原判示日時場所において、俗にランプ返し(トランプ返しの意味)という方法、つまり価格約三百六十円相当の万年筆を客に金千円で販売し、それを買つた客には抽せん券を渡し、客をしてその券により被告人がトランプ札を作り変えた三枚の札を、いろいろにならべかえた中から一枚の当り札をひき当てさせ、当つた場合には現金二千円又は同額の商品券とか時計を賞品として提供し、当らなかつた場合には賞品をださないという一見あだかも万年筆の販売に伴いくじ引で景品を与えるような外見のもとに実は専ら右賞金や賞品の得喪を目的として客には金千円の現金をかけさせ自分は現金二千円その他の物品をかける方法による賭博を、沢木ふみ他数名を相手としてそれぞれ千円ずつをかけさせてなしたものであるという事実を判示し、この被告人の所為に対し常習賭博罪をもつて問擬しているのである。
ところで、凡そ賭博とは、二人以上の者が相互に財物を賭け偶然の勝負によりその得喪を決める行為であることは多言を要しないところであるが、ここに勝負の偶然性は賭博に参加する当事者全員について存在しなければならないものであり、参加者のうちに偶然性のない者の存する場合は全面的に賭博行為は成立しないものといわねばならない。本件諸般の証拠を検討し当審でした事実の取調の結果を参酌考量するに(特に本件いわゆるトランプ返しの方法については被告人の検察官及び原審における供述を注目すべきである)、被告人は(本件にいわゆるさくら等と称する共犯者乃至助勢者がいたかどうか証拠上明らかでないが、本件被告人の行動にこれらの者の参加は絶対不可欠の要素ではなく、これらの者の行動は射倖心をそそられ被告人の申出に応じようかどうか意思決定をなしかねているお客に参加する決意をいだかせるために効果的に存在し被告人の行動を助長する役割を負担するに過ぎないものでその存否はいずれにするも被告人の刑責の有無の判断には本質的な影響はないものと認められる。)、価格約三百五六十円程度の品質の粗悪な万年筆代を金千円をもつて街頭で販売するに当り客寄せのため口上としてこの万年筆買受の申出をした者には抽せん券を渡しこれによつて被告人が操作するトランプ様の札三枚のうちの大当りと書いた札の所在を当てた者には現金二千円、又は同額の商品券とか、時計を賞品として与えるが、大当り札にはずれたときは右万年筆だけを与えると揚言し大いに射倖心をそそり右申出に応ずる者を勧誘し、次いで被告人自身トランプ様の札三枚(内一枚に大当りと記載してあり、これを当てた者に前記賞品が与えられる。)を操作し数回相互の位置を移動させ裏向きにしたまま横に一列に並べ、お客をして前記入手した抽せん券を前に出して自己の欲する札を指定させ、次いで右札をめくつて点検し大当りかどうかを確かめるという方法によつて巧みにお客を呼び寄せていた者であるが、この際被告人の前記トランプ様の札三枚の操作は札自体にごまかしがあつたり、右三枚以外のかくされた別の札が存在したりするのではないが、被告人が大当りの札と他の札とを一緒に一方の手に持ち、他の一枚は別の手に持ち相互に動かしながら移動させて結局自分の前の机の上に置くのであるが、大当りの札と一緒に持つた他の札とを巧みに動かしてお客の目をくらませ大当りの札を別の位置に置きかえるようにみせかけて他の札をその位置に投げるようにして置き、お客の目には恰かも大当りの札をその位置に置いたように見せかけるのであつて、素人眼には容易にわからないが、被告人等この種の技術の習練をつんだ者には左程むつかしいことではなく、大当りの札を何処に置くかは全く操作する者の意のままであることを窺い知ることができるのである。すなわち、以上によれば、お客の側からすればお互に単純な射倖方法として偶然の勝負を争うつもりであつたかも知れないが、少くとも被告人としてはこの勝負に偶然性はなく自己の意思に従つて必然的に勝負を決し得る状態にあつたものと認めなければならない。換言せば、被告人としては相手方に対してはこの方法が射倖方法であるように装いながら、内実は被告人の予定した勝負を自由に実現させる方法をその手段のうちに交え施し、しかも相手方に対しては単純な射倖方法なりと誤信させて万年筆買受代金名義で現金を提供せしめたものであつて詐欺をもつて目すべき筋合のものであると考えられる。然るが故に原判決は、被告人のトランプ様のものの操作について審理を尽さなかつたためか、或はこの方法をもつて単純な賭博の形態と速断したためか被告人につき原審に現われた証拠資料によれば本来賭博行為を構成しない事実を誤認しこれを賭博と認定したものであつて、もとより、この誤認は判決に影響を及ぼすことの明らかなものであり、原判決は破棄を免れない。よつて論旨は事実誤認の点において結局理由があることに帰する。
(大塚 渡辺辰 江碕)